ネガテイブ人生論

人生について暗い視点でデイープに考えるブログ

ひとそれぞれの哲学

 

 

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哲学者の哲学をあたかも自分の哲学のように話す人間がいる。
有名な哲学論を知っているかなんて本当は意味がないと思う。
哲学者の主観でしかないから。
それをひっそりと心に留めておくのはいいが
自分発のように人前で話すのは全く違う。

 

本来哲学ってそれぞれの生き方や考え方で。
生きる意味などといった問題に対しての答えは百人いれば百通り
存在し、正しいとか間違ってるかとかそんな物差しはないはずだ。

違う人間として生まれてきて人間同士がうまくいかないのは当たり前。
共通点なんて本当はほとんどないんだ。
結局はそれを認めあうことくらいしかできない。

 

私たちは生まれたときからすでに不平等で不自由で孤独だ。
私がわたしに気づいたときにはすでに私には多くの条件がつけられていて
その多くは変えることができない。
自由というけれど資本主義社会で生産性のない条件では不自由だし
選択肢だらけで人との比較や自身の選択への後悔がある。

 

ときに選択できなかった事柄にばかり気をとられ
本当に大事なものも見落としている。
皆が同じ条件だったら
人はもっと多くを分かち合えるのではないかとすら思う。

 

この不平等孤独な世界でわたしたちが幸せに生きることはたやすいことではない。
人を信用することも簡単ではない。

 

こんな世界においても人が人に興味を持ち格差立場を越えたところで
たった一瞬でも共感共有共鳴できたとき 
悪くいえばそのときだけは解放され
よく言えば奇跡ともいえる感動となる。


しかし汚い心で見つめていたらこういった感動体験ができず
人間の神秘性に触れることはできない。
いろんなことが見えなくて孤独になり
ほんとうの自分に蓋をしている人間なんかそこら中に溢れている。

 

知識で得た情報(哲学、思想)ではなくその人の本当がそこにあるとき
私は心を揺さぶられる。
子供はずる賢い生き物だがときにその表情や言葉には何か以上の何かを感じる
こともある。
大人になってしか分かってこない人生観はたくさんあるが
それも一場面一場面に「ほんとうの自分で勝負」してきた人間のみ
が得られることだ。

 

生きることは最後までいろんなことを探し続けることなんだろう。
答えがなくってそのあいまいなダークダークグレーな世界で。
期待せずに挑戦し待ち続けるってことなんだろう。